「脱、神と偶像の交換」(ホセア9章15節) ( 7.24/2023 )
「彼らのすべての悪はギルガルにある。
わたしはそこで彼らを憎んだのだ。」(15節)

ホセア書の概観は罪を犯して夫を離れて行く妻ゴメルにイスラエルを重ね合わせて語っている書簡です。すなわち、罪深いイスラエルが悔い改めて神に立ち返ることを神は望んで下さているのです。わたくしたちも同様にいつでも、神の愛に気づいて悔い改めて神に立ち返ることができるのです。

まず1節、彼らの麦打ち場という仕事の場所を舞台として語られています。ルツ記にルツがボアズの足元に潜り込む場面がございますが、夜を明かして働く人々にとって誘惑のある場所であり、偶像礼拝の場所ともなっていたそうです。
6節に「彼らが慕う銀」イスラエルは自分を守るためにアッシリアから離れてエジプトに助けを求めました。しかし、イスラエルを守ることができるのは神様だけだったのです。
7節「預言者は愚か者」これが人々の考えでした。自分の生活を改める気持ちが無かったのです。「霊の人はきのふれた者だ」と。ところが過ぎ去った時は取り戻せないのです。神のために時を用いた方が良いと思います。
9節の「ギブアの日」はベニアミン族の引き起こした大事件がここに触れられています。(士師記19章〜20章)しかし、あなたではなく私の問題になったと、そして国全体の問題になっていると語られています。
10節の「バアル・ペオルにやってきたとき」これはモアブを彼らが訪れたとき、バラクという王はイスラエルをのろわせようとしますが、預言者バラムは祝福してしまうという民数記22章の記事がここに語られています。しかし、その中において民はモアブの影響を強く受けてしまって性的な罪と偶像礼拝に陥るのです。環境は大切です。
14節、2列王17章5節から18節にイスラエルの結末が簡潔にまとめられ記されています。すなわち、子どもを偶像にささげていました。ホセアは(もう子を与えないでください。)と祈るのです。

そして、15節「すべての悪はギルガルにある」と指摘しています。1サムエル8章10節から19節に王を求めるということは自分たちの息子を王のために戦場に送ることになるのだぞと忠告しますが民はサムエルのことばに耳を傾けることなく王を求めます。1サムエル11章15節にはサウル王の誕生が記されています。

神が王として国を治めてくださっていたのに人間の王を求めてしまったこと、このことがイスラエルの滅亡が近づいている時に、建国のときまでさかのぼって罪として指摘されています。すなわち王を得たという問題以上に、神を失ったこと、そして、問題解決を神に求めないで偶像(王)に求めてしまう体質が問題なのだと指摘されています。ホセア書はゴメルが夫ホセアに赦され家庭に帰る物語です。私たちも神に悔い改めるなら赦されるのです。偶像に逃げるのではなく、すなわち神のない人生でなく、一切の権威者である主イエス様を王として聞いてお従いしましょう。(マタイ28章18節)

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