「愛の絆」(ヨハネの黙示録1章5節、6節) ( 7.30/2023 )
「私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち。」(5節)

神様は機械のように私たちが神様を愛することを願ってはおられません。愛の絆で結び合わせて愛するようにと願っておられます。

神様の愛と人間の愛とでは大きな隔たりがあることをまず知ってください。人間の世界では意地悪なことをされるとその人とは疎遠になります。また、自分も愛することができない人のところには近づき辛いものです。しかし、神様はどんなに私共が神様を無視して、神様の戒め(神を愛し隣人を愛すること)を破っても愛し続けてくださっています。人間の愛と神の愛は全く性質が異なっているということです。

太陽が周りを照らすことをその本質としているように、神様の御本質は愛です。悪いことしかできない者であっても神は愛してくださっているのです。ある少年の母親が病気になったそうです。子どもは母の愛を受けたくて母親に近づくので病気の療養ができません。そこで少年を隣の家に移して母親に治療に専念してもらったのですが、その甲斐なく病状は悪化し、亡くなり、葬儀に少年を参列させることもできず、棺の中の母親を見せることもできず、埋葬も終わってしまったそうです。少年は自分の家に帰され、そして母を捜すのですが見つかりません。家じゅうの部屋を捜し終えたとき、少年は何を求めたでしょうか。隣の家も捜したいと言い出したのです。私たちの心が天国にひかれるのは、私たちを愛してくださったゆえに十字架にかかられたキリストにお会いすることができるからです。神の愛というのは、理由はないのです。愛することが神の本質なのです。神は罪人だから愛することができないとはおっしゃらないのです。神はあなたを愛し、あなたを祝福することを願っておられます。

「実にキリストは、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)このみことばで神があなたを愛してくださると確信するのに充分ではないでしょうか。あなたを愛しておられなかったらあなたのために死んではくださらなかったでしょう。あなたの心はこの神の愛に逆らって押し進み、跳ね返し、軽んじ得るほど堅いものなのでしょうか。あなたはそれができるかもしれません。しかし、それは危険なことです。
ある人は、自分が正しい人間になれたら神もまた愛してくださると信じると言われます。しかし、神はきよい人ばかりでなく不敬虔な人をも愛しておられるのです。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)十字架の中に顕された愛を受け取ることができるのです。

神様は罪を洗ってから愛されるのではなく、まず愛して後、罪を洗ってくださいます。神はどんなに汚れていてもまず愛して受け入れてそれから洗ってくださいます。この地上の困難の中で神との愛の絆を結びましょう。それが、神がキリストを遣わされた理由、そして私たちが地上にいる意味なのです。        
(参考図書;D・Lムーディー著 「神への道」)

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