「神のみこころを行おう」(ヨハネ7章17節) ( 8.21/2023 )
「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」(17節)

人は神に従う気持ちがなければ、聖書を手に取って読むことはありません。もし、神のみこころを行いたくないと思うなら教理を知ることもないでしょう。しかし、どんなに疑い深い人も自分が罪を犯さないようになることを神が欲していてくださるという事実を知らない人はいません。

けれども、放っておいて人が神に立ち返ることは、なかなか難しいのが現実です。それは、
ダニエル12章10節に、「多くの者は身を清めて白くし、そうして練られる。悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。しかし、賢明な者たちは理解する。」とありますが、神は決して敵にその秘密を現すことをなさいません。もし、執拗に罪の中に生きて行こうとするならば神のみ教えを知ることは不可能でしょう。
詩篇25篇14節に「主は ご自分を恐れる者と親しく交わり
その契約を彼らにお知らせになる。」
ヨハネ15章15節「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」キリストの友となる時に、私たちはその秘密を知るのです。
創世記18章17節「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」すなわちアブラハムのように神に似る者こそ、最も神を理解するのにふさわしい者です。罪の中より離れようとしない者は、神のみこころを悟らないでしょうし、神もその秘密を明らかにはなさらないでしょう。しかし、もし喜んで罪から遠ざかるなら、心の中に差し込む光を感じて驚嘆されるに違いありません。

私は、昔「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。」(詩篇61篇2節)を読んだときに、(地の果てに居ても、そこにも呼び求めることのできる神様がおられるのだ。)という思いを頂き、起き上がる力を与えられ(世に罪があることを指摘することは誰にでもできますが、抗う力は神に属します。詩篇62篇11節参照)、本棚の中に立ててある説教集を手に取り、その本の巻頭言のみことばに力を頂きました。それは、コロサイ1章27節「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」でした。(望みは自分だ)と思い込んでいた私に向かって神様のことばは、望みはあなたにではなくキリストにあると教えてくださったのです。そのときから、神に水先案内人になっていただこうと思いました。キリスト教案内(現在は「救いは今です」)の例話を思い出したのです。そして、ヨハネの福音書の「風は思いのままに吹く・・・」の意味が分かりました。

あなたも、ただ、主イエス様の十字架を仰ぎ、あなたの人生を神に任せてみませんか。「もし、私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう」。(1コリント15章32節)人間の考えに解決が必要です。聖書の言葉(約束)には罪を砕く力、すなわち人を生かす力があります。主イエス様は今も生きておられて執り成し続けてくださっています。

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