「守ることができる方」(ユダ24節、25節) ( 9.3/2023 )
「あなたがたを、つまずかないようにまもることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」(24節、25節)

このユダの手紙の中にはモーセをはじめ聖書の有名人物が多く登場しています。すなわちユダは歴史の中に神の御主権は現れていると語っています。けれども、同時に多くの人々を虜にして蹂躙している目に見えない存在もまた彼は明らかにしています。それは悪魔です(9節)。神の栄光のために生きるのか、自分の栄光のために生きるのか今日も選択を迫られているのです(25節)。けれども、栄光は神にあるのです。すなわち私たちを悪魔から守る力は神にのみあるのです。

4節にこの手紙の目的が記されています。神の恵みを放縦に代えている人々、そして唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定している人々に信仰のために戦うことを教えています(3節)。

神は悪を放置されず裁かれます。放縦をそのままにしておくことは裁きを待つことになります。放縦に身をゆだねている人々は自ら進んでそうしているのではないでしょう。最初は戦っていたはずです。しかし、敗北に慣れて自由に操られる生活に入ってしまっているのです。敗北の原因は敵の強さを知らないことです。その敵とは悪魔です。この悪魔に対して戦えるのは神だけです(19節)。すなわち、聖霊が必要です。

自分の不敬虔な欲望のままにふるまう人々は聖霊を持っていません(18節、19節)。聖霊によらなければイエスを主と告白できないのです。主イエス様を主人として受け入れ従う生活に入れられる必要があります。

ある有名な牧師の説教に何度も登場したフレーズに、「からかってやろうと思って手を挙げた」というのがあります。すなわち、神はからかわれるようなお方ではなかったということです。目の前に立つ牧師がどんな人物であったとしても神は絶対にからかわれるようなお方ではないのです。

ペンテコステの日に聖霊は下りました。それを見た人々は自分たちも同じように罪を告白し悔い改めて神に従い始めました。悔い改めるとは、罪を認めることから始まります。神が私共を悪魔から守ってくださるのです。神にはそれができるのです。自分の栄光のために生きるようにそそのかす存在から守っていただきましょう。放縦にもつぶやきにも分裂にも御霊の力が必要です。神に反逆してきたことを神にお詫びするとき新しい人生が始まるのです。

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