「幸せって何だろう」(ルカ15章32節) ( 9.24/2023 )
「喜び祝うのは当然ではないか。」(32節)

1.神の国に入るとは何でないか

日曜日に教会に出かけること、ではありません。正しいことを行うように心がけること、これも違います。引越しをしたり、新しい決心をすることでもありません。洗礼を受けてもそれだけでは神の国に入ることにはなりません。聖餐に与ること、祈ることもそれだけで神の子になるのではありません。新しく生まれ変わることが必要です。

2.新しく生まれること

すなわち、神の国は努力してそこに入るのではなく信仰によって入るのです。「しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められるのです。」(ローマ4章5節)ピリピ2章12節には「恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。」とあります。すなわち、救いに与かった後に努力するのです。

ではどうやって救いに入るのでしょうか。
ヨハネ19章30節「完了した」という主イエス様の十字架の御業のゆえに救いに入れられるのです。

パウロという大伝道者もパリサイ人であり正しい生き方を実践した人でした。しかし、「神が・・・御子を私の内に啓示することを良しとされたとき」(ガラテヤ1章15節、16節)に初めて新生を経験したのです。
ヨハネ3章にニコデモというユダヤ人の議員が出てまいります。彼は正しい人として世間からも認められていた人物だったと思います。でも、あなたは新しく生まれる必要があると主イエス様に言われました(ヨハネ3章3節)。

あるとき、青年たちが説明できないことは信じないと言って汽車の中で討議していました。そばに乗り合わせた老人が「私は主イエス様を信じて新しく生まれることを信じる。」と言いました。しかし青年たちは納得できないと答えました。そこで老人は一緒に乗り合わせていた動物たち、鶏、羊、豚、牛を指してこう答えたそうです。「皆おなじ草を食べているのに卵や洋服やお肉になる。これをどうやって納得できるんだい。私は主イエス様を信じて新しく生まれることを信じないわけにはいかないのだよ。」と答えたそうです。
では、新しく生まれるとはどういうことなのでしょうか。

3.それはイエス・キリスト

自分自身が○○になったら救われるというのではないのです。他の人が○○になったら救われるのでもありません。イエス・キリストを信じることができたなら、それが救いなのです。主イエス様を信じるならあなたが救われるのです。他の人は関係ないのです。放蕩息子の兄は弟を気にしていました。しかし、父を手こずらせたのは放蕩した弟ではなく兄でした(ルカ15章28節)。兄も自分の罪を認めて悔い改める(神に従い始める)ことが必要なのであり、他の人は関係ないのです。救いは他の人のものではなくあなたのもの、あなたの問題なのです。

では、どうやって神様を信じるのでしょうか。ある少女は病気で隔離されました。でもおじいちゃんだけは毎朝、そして夕ごとに顔を見に来てくれました。そこで、少女はある朝おじいちゃんに、お菓子で(わたし、絵具が欲しいの)と書きました。そして朝、顔を見に来てくれたおじいちゃんを、そのお菓子の字が書かれている部屋の片隅に連れて行ってその文字を見せました。おじいちゃんは「さようなら」と言って仕事に出かけました。
夕方またおじいちゃんが訪ねてきました。おじいちゃんは上着を掛けて少女の部屋に来てくれたのです。少女はどうしたと思いますか。また自分の部屋の片隅におじいちゃんを連れて行ったのです。そして朝見せたお菓子で描かれた字をおじいちゃんに見せたのです。
でもそこに描かれていた字は「おじいちゃん、絵具ありがとう。」だったのです。神様を信じるということは、聖書の言葉をそのまま信じることなのです。少女がまだ絵具を見ていないのに、おじいちゃんは必ず買って来てくれると信じていたように。
「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。』」(ヨハネ11章25節、26節)

新しく生まれるとは、神から離れていたことを認めてあなたのために十字架にかかってくださった主イエス様を信じることです(ヨハネ19章30節参照)。そして新しく生まれるとき、地図を最後まで見なくても目的地があることを信じることができるように神の国を味わう生活が始まります。そして自分さえも神にとっては喜びの存在であることを知るのです。
(参考図書;D.L.ムーデー著「神への道」)

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