「王国とし、祭司としてくださった方」(ヨハネの黙示録1章6節) ( 10.2/2023 )
「また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。」(6節)

クリスチャンは自分の信念に生きる民ではありません。主イエス様の御支配の中に歩む民です。

1.神とは

創世記1章1節に「はじめに神が天と地を創造された。」とあります。天と地を創造されたお方が神です。聖書では父なる神として登場しています。

次にヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。全世界、宇宙を創造されたお方が私共人間を救うためにひとり子を人として遣わしてくださいました。神であり人であるお方、それがイエス・キリストです。聖書では子なる神として登場しています。

次に、ヨハネの福音書14章16節、17節「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」父なる神が助け主としてお与えくださるお方が御霊です。聖書では御霊、または聖霊として登場しています。どうして、神が私共の人生に関係があるのかと思われるかと思います。大いに関係があるのです。それは、罪から救われるためには救われた先の、どこに向かって救われるかということが非常に大切な問題だからです。

2.黙示録1章とは、

黙示録1章で段落の下がっている部分、すなわち7節は著者であるヨハネの心に明確に示されていた部分が表されています。すなわち、文章を書くきっかけとなった部分です。

「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。」イエス・キリストは十字架にかかり、死に黄泉に下ってくださった後、よみがえられ弟子たちに現れ、天に上られ今も生きておられます。そしてすべてのものを御手に治めておられます。まず、8節「神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」そして17節、18節「『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。』」。

全能者、すなわちすべてを支配される主イエス様がもう一度来られる、そしてすべての目が彼を見るというのです。
このことは、一大事です。なぜなら、先にこのお方の声を聞いて(11節)主イエス様を幻で見せられたヨハネは、17節前半に「この方を見たとき、私は死んだ者のように足もとに倒れ込んだ。」
今も聖書を読むならへブル4章12節13節も参照してください。ヨハネがそうであったように起き上がれなくなるのです。これが正しく主イエス様を見た人の姿です。
でも、主は17節〜19節のように語ってくださるのです。これがクリスチャン生涯です。
『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死と黄泉の鍵を持っている。それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。』ゆえに主イエス様によって起こされるのです。これが主イエス様を信じた人の姿です。

3.王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。(6節)

(主イエス様によって倒され、起こされ、忙しいね。)と思われるでしょうか。
クリスチャン生涯というのは罪を充実させるために主イエス様を信じお従いしているのではありません。すなわち、自分の欲望を充足させることが信仰の目的ではありません。信仰とは神に立ち返る道筋です。主イエス様だけを見る、それが唯一罪から救われる道です。そして、罪から救われるなら、必ず自分から進んで神を賛美したくなります。
どんなふうに伝道すればいいのでしょうか。「物価高ですが収入が増えますよ」、なんていうことが信仰の結果ではありません。「主イエス様を信じ、父なる神を知り、御霊によって主イエス様を主とできるようになる。」これがお伝えすべき福音、すなわち良い知らせです。すなわち、主イエス様に向く時に初めて私共は罪の縄目から解かれるのです。神を賛美できるように変えられるのです。

聖書には偶像が度々出てまいります。偶像を極めても悪魔の奴隷を続けなければなりません。でも、主イエス様を信じ、信仰の対象を偶像から主イエス様に今日変えるなら今日救われるのです。すなわち、どんな苦難もアルファであり、オメガであるお方、全能者にお任せできるようになるのです。結婚が幸せでしょうか。就職が幸せでしょうか。子どもが幸せでしょうか。老人ホームやお墓、そしてお金が幸せでしょうか。どれも偶像になり得ますが、救いにはなりません。主イエス様だけが神を教えてくださるのです。主イエス様に仕えるときに初めて悪魔は私共の人生から手を引かざるを得なくなるのです(「私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、」1章5節参照)。罪は神ではないのです。必ず悔い改めなければならないのです。主イエス様だけを人生に仰ぎ受け止めるときに、悲しみも苦しみも結婚も就職も流刑さえも主から受け入れる力を受けるのです(1章9節、8節、17節、18節)。

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