「わたしのことば」(ヨハネの黙示録3章8節) ( 11.5/2023 )
「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(8節)

この黙示録三章はサルデス、フィラデルフィア、ラオデキアの教会について主によって語られている部分です。三つの教会に共通しているのは「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」です。そして、共通していないのはサルデスとラオデキアの教会には悔い改め(3節、19節)が勧められていますが、フィラデルフィアの教会にはそれがありません。すなわち、フィラデルフィアの教会には他の教会には無い優れている点があったということです。それは、何か、まずサルデスとラオデキアの教会に欠けていたものを確認してみましょう。

サルデスの教会については、3節「どのように受け、聞いたのかを思い起こし、それを守り」とあります。それゆえサルデスの教会は聞いたみことばを忘れ、守っていなかったことがわかります。

ラオデキアの教会については、17節、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることがわかっていない」とあります。それゆえに18節「火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い服を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。」そして、20節「わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と勧められています。すなわち、ラオデキアの教会は自分の姿に気づいていないので主に対する求めが無いし、主との交わりが欠けているというのです。

そこで悔い改めを勧められていないフラデルフィアの教会を最後に見てみましょう。
それは8節「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」ここに三つの特徴が指摘されています。
1.力はすこしであったこと
2.主のことばを守ったこと
3.主の名を否まなかったこと

わたくし共にとって一番難しいのは1番の力の問題です。でも、フィラデルフィアの教会には残念ながら衣を汚さなかったサルデスの教会(4節)や「自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もない」(17節)というラオデキアの教会のように、失敗のない教会でもなく富を得る力にも乏しい教会でした。しかし、主のことばを守り、主の名を否まなかった、すなわち主のことばを大切にして守り、主が語られるところにお従いした教会でした。

では、主のことばを守り、主の名を否まないためには何が必要なのでしょうか。
それは、10節忍耐、そして11節「自分の冠を誰にも奪われないように、持っているものをしっかりと保つ」ことが主からのご命令です。
そして主はこの命令のために8節に、「だれも閉じることのできない門を、あなたのために開いておいた。」と語っておられます。

最後に、この黙示録三章の特筆すべき点は、1節「わたしはあなたの行いを知っている。」、8節にも「わたしはあなたの行いを知っている。」、15節にも「わたしはあなたの行いを知っている。」(因みに、黙示録二章のエペソにある教会には2章2節「あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。」スミルナにある教会には2章9節「あなたの苦難と貧しさを知っている。」ペルガモンにある教会には2章12節「あなたの住んでいるところを知っている。」ティアティラにある教会には2章19節「あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている」)すなわち、3章はシンプルに行いだけに注目されています。その中でも3章8節のフィラデルフィアの教会は「わたしのことばを守り、わたしの名を否まない」ところが注目されています。

みことばを守るとは具体的には、例えば、
「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」(ガラテヤ3章13節14節)、
「わたしは言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(ガラテヤ5章16節)、
「御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」(ガラテヤ5章18節)今、主イエス様を信じる私たちを導かれるお方は御霊です。

力が小さくて試練や失敗や困難はあるでしょう。でも、もし、主のことばを守り、主の名を否まないなら誰も閉じることのできない門があなたのために開かれています。昔々、伝道師時代にお世話になった教会に、正に12節に証しされています「柱」とされている役員さんがおられました。経済的にも教会をしょって立っていた信徒さんでした。この方は主が開いてくださった門を知っているだけでなく、夜中の2時頃仕事を終えて、主が開いてくださった門を通って礼拝堂で祈り抜いて教会を守り帰宅されていました。みことばを信じ、主に近づいて祈り、御霊に生かされお従いしましょう。あなたの力や律法があなたを守るのではなく、みことば、すなわち主の御霊があなたを守るのです。そして、それを具体化する方策は主が開いてくださった門を実際に通って教会の中で主に祈ることなのです。

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