『コリントにある神の教会』(1コリント1章1節〜9節) ( 11.22/2023 )
「コリントにある神の教会へ。…キリストの名を呼び求めているすべての人々とともに、
キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です」(2節)

序. 教会の会堂が献堂されました。世にあって生きる教会の姿を見てまいりたい。

1. 「コリントにある」「神の」教会 世にあって世のものでなし

コリント書はどのような書物か。ローマ書は教理。救いとは何か?コリント書は実践。救われた者はいかに生きるべきか。福音に生きる生活、その歩み。「コリントにある」。コリント市とはギリシャの大都市。神を畏れない社会。教養主義。学歴社会。経済第一主義。「楽しい」が一番。高い知識がありながら、刹那的。道徳的な低下が見える社会。コリントにある「神の」教会。コリントの信徒はそのような中から、創造主に出会い、自分の罪を悔い改め、また神なき世界に遣わされ帰される存在。地の塩。舟は水の中にあっても、舟の中に水が入ると沈む。世にあって世のものではない。そのような中でクリスチャンには戦いがある。まずは家庭の中で。礼拝に出かける、聖書を読む、祈る…、勝ち取らなければできないこと。しかし、独りではない。仲間がいる。「いたるところで」。「どこどこにある」は、世界中の教会を指す。世界中の聖徒がそれぞれの所で苦闘している。「キリストの名を呼び求めているすべての人とともに」。私たちはどこにあっても一つの宣教。この地に遣わされている各教会。「多くの証人たちが、雲のようにとりまいている」(ヘブル12:1)

2.教会になされた神のみわざ 「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ」

献堂式でこの教会の歴史が語られた。この地での宣教の始まり。歴史はヒズ・ストーリー。神のみわざの物語。個人にも神の歴史がある。「わたしがあなたがたを選び…ました」(ヨハネ15:16)。人間は受け身。聖書は私と無関係な書物ではない。神が私に何をしてくださったか書かれている。私がキリストを十字架につけた(使徒2:36)。「しかし、まだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死なれたことによって、私たちに対する愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。こんな者を「聖徒」と呼んでくださる。主のものであるという理由だけで。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(使徒10:15)。恵みとは、信仰とは、受け身。「神が御子の血であがない取られた神の教会」(使徒20:28)。主の印がつけられているから聖い。だから、自らを清くする。御子の代価を侮らない。人間の力で救いを為そうとすることも恵みを侮ること。

3.教会の使命―教会が教会であるということ 「キリストとの交わり」

教会にはあがない取られた目的がある。教会の使命は1)宣教、2)交わり、3)奉仕。第一に、福音が命がけで語られる場所。命がけで聞く場所。安息日
礼拝を命がけで守る。それこそが宣教、宣証。第二に、教会につながる。まきは一本では消える。お互いに燃やし合うところに聖霊の油が注がれる。「わたしにつながっていなければ」(ヨハネ15章)。再臨の時、イエス様が礼拝を見られて、「あの人はどこにいるのか。」と心配される。再臨の時だけイエス様の前に出る訳にはいかない。再臨は遅い。しかし、毎週の主日礼拝こそ再臨に備える準備の場所。感動がなくても、苦しい時も教会につながっていることが大事。
「あなたがたは枝々です」。小枝は幹に直接つながらず、他の枝につながって幹の命は流れる。互いの欠けを補う。コイノニアの他の意味は「奉仕」。欠けと賜物は互いに助けてもらうため。特に、牧師が倒れないように。説教者が教会の本質である御言葉と祈りの奉仕に余念なく仕えられるように。主を愛する者は主のからだである教会を愛する。「試験紙となるのは、『わたしの信仰は何の役に立つか』ということではなく、『信仰はわたしに、他人のために何をさせるか』」

結. 教会のゴールは再臨 信仰の完成者イエスから目を離さずに(ヘブル12:2)
(説教者;田代美雪牧師)

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