「救い主のお誕生」(ルカ2章11節) ( 12.24/2023 )
「今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」“Today in the town of David a Savior has been born to you; he is the Messiah the Lord.”
最初に主の使いから主イエス様の誕生を知らされた羊飼いたち(ルカ2章9節)は、御使いのことばがその通りであったことを確認して神様をあがめ賛美しました(ルカ2章11節)。主イエス様はタラントの譬えを話しておられますが(マタイ25章14節〜46節)、神様が与えてくださった時間はタラントであり、私たちも羊飼いたちと同様に聖書の言葉を確認するために生きていくことが必要だと思うのです。すなわち、本当に私たちのために神が与えてくださった救い主に出会えるかという問題です。

1.神様への信頼

さて、人生を難しくしてしまう原因はいったいどこにあるのでしょうか。聖書から聞いてみますと、それは創造主である神様と私たちとの信頼関係の中に見出されます。聖書の創世記の中に最初の人アダムが神様の命令を破ってしまった後、主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠し、神様に答えた言葉が記されています。「人は言った。『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」”The man said “The woman you put here with me#8212;she gave me some fruit from the tree and I ate it.””(創世記3章12節)

2.最も小さいものの一人にしたこと(マタイ25章40節)

“The King will reply ‘Truly I tell you whatever you did for one of the least of these brothers and sisters of mine you did for me.’(マタイ25章40節)
主イエス様は最も小さい者のために何をしたかを問われます。しかし、アダムにとって最も愛するべき人はエバでしたが、責任を神様にも問うてしまっているのです。これが私共の現実ではないでしょうか。しかし、神は愛なのです。

3.十字架の中に神の愛を見る(ルカ9章23節)

「イエスは皆に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』
”Then he said to them all: “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross daily and follow me.””

では、どうすれば十字架を負えるのでしょうか。
パウロが十字架の意味を知ったのは十字架を体験しているからでした。
十字架が日々の生活の中に恵みを与えるのです。どのように体験していくのかを学びましょう。

ビンセント・テイラーはクロスオブクライストの中で語っています。
十字架の体験についての四つの転機

1.十字架を信じる信仰によって(ローマ3章21節〜26節、使徒26章14節)十字架が分かった
「信仰をもって受けるべき」(25節)十字架は信仰が受け取るべきものだよということです。掟を守ることによってではなく、主イエス様の身代わりの十字架を信じる信仰による。(1テモテ章13節〜16節)罪びとの頭(世界で救われない人がいるとするならそれは私だと言っています)、どんな人でも、信じたら救われるのだということを示す模範となるために私でさえ救われたのだから。私のひとつひとつの罪のため、主の十字架が罪のもろもろの身代わりであって、永遠の滅亡に行くところをキリストが私に代わって十字架について死んでくださった。十字架を我が罪の身代わりと信じること。信仰以外によっては受け取ることはできないということです。

2.十字架(主イエス様)との合体(2コリント5章14節、15節)
神様に従わないもう一つの心がある。けがれがあってそれが罪として出てくることに悩む(ローマ7章)。主はもう一度信仰の目をもって十字架を見上げてごらん。自己中心がイエス様と一緒につけられて死んでいる十字架を見せられました(ガラテヤ2章19節、20節)。醜い私があそこで死んでいるのですねと信仰によってイエス様と合体した。
罪を繰り返すことに苦しむ。この地上においては、失敗はあるのです。でもダメではない。その時こそ、十字架を見上げてごらん。あなたのエゴが死んでいる。イエス・キリストとともに死んでいるというのです。”For Christ’s love compels us because we are convinced that one died for all and therefore all died. And he died for all that those who live should no longer live for themselves but for him who died for them and was raised again.”(2コリント5章14節、15節)わたしと一緒に死んでいるぞ。お前も死に続けるのだぞ。恩寵によって生きていく。キリストに生きていただくために。

3.礼典をとおしての十字架体験(ローマ6章3節〜、ヨハネ6章)
礼典とは洗礼と聖餐です。洗礼(ローマ6章3節)とはキリストにつなげていただくことです。イエス・キリストの十字架とつながることが洗礼です。
もう一つは聖餐です。それはイエス様と私は一つですという信仰の告白です。

4.自ら十字架を負って犠牲の生涯を生きる(2コリント11章、ルカ9章23節)
犠牲を払って苦しみを忍んで生きた。キリストのために鞭うたれました(ガラテヤ3章10節、申命記27章26節)。鞭の痛みを覚えるときに、イエス様が私の罪のために神様から呪われたものはこんなものではなかった。主イエス様は死んでくださって私の魂は永遠に生きるものとされた。そして1コリント15章10節”But by the grace of God I am what I am and his grace to me was not without effect. No I worked harder than all of them−yet not I but the grace of God that was with me.”それは恩寵によると彼は告白しました。
(参考図書;小林和夫著 「63回-使徒パウロの十字架体験」FEBC)

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