「神の印(いん)」(ヨハネの黙示録9章4節) ( 4.7/2024 )
「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」(4節)
'They were told not to harm the grass of the earth or any plant or tree. They were supposed to harm only the people without God’s official seal on their foreheads. '(Revelation 9:4 NIRV)

「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4章11節)教会とは、この地上にあって主イエス様を神として礼拝をささげるところです。礼拝されるお方は父・子・聖霊、三一の神です。

さて、この9章では主イエス様の再臨(教会携挙)後地上にあってどのような出来事が起こるのか、第五の御使いと第六の御使いの部分ですが特質すべき点はこれらの災害時に残される人々は悔い改めることのない人々であったという点です。(あーもう望みはないな)と感じてしまうのですが、12章17節まで読み進みますと「女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち」が登場しますので主は患難時代に残される人々にも回復のチャンスを与えてくださるようです。

第五の御使いのラッパは死を願っても死ぬことが許されず5か月間苦しむ人々について記され、第六の御使いのラッパは三分の一の人々を殺してしまう裁きが記されているのですが、残された人々はみな悔い改めることのない人々でした。(悪い人ばかり生き残るとはいったいどういうことでしょうか)と問いたくなるのですが、現代にも同じことが起こっていると思うのです。

第一に、11節、いなごはヘブル語でアバドン(破壊)という底知れぬところの使いを王としているという点です。サソリのような苦しみを与えるいなごの王は悪魔の使いです。

第二に、20節、21節、殺されることなく生き残った人々が偶像礼拝をやめることのない人々であり、悔い改めることのない人々であったという点です。

第三に、4節、額(ひたい)に神の印(いん)を持った者は害を免れたこと。

死にたいのに死ねない人、偶像礼拝を辞めず、悔い改めることがない、なんとなく礼拝には来ているけど、神様を礼拝していない形だけのクリスチャンと似ていないでしょうか。(なんて失礼なことを)と思われるかもしれませんが、旧約聖書のヨナはニネベの王様が悔い改めた時、つぶやいてしまうのです(ヨナ4章1節)。これは有名な聖書学者の先生がおっしゃっているのですが、私たちは主イエス様の死と一つにしていただかない限り新しい人生を始めることはできないのです。
2コリント5章14節、15節
'Christ’s love controls us. We are sure that one person died for everyone. And so everyone died. Christ died for everyone. He died so that those who live should not live for themselves anymore. They should live for Christ. He died for them and was raised again. '(2 Corinthians 5:14〜15)
自分の死だけでは悪魔には到底対抗できないのです。主イエス様を信じましょう。そして、死に至るまで忠実でありましょう。

教会にも悪魔は働きます。サソリのような苦しみがいなごによって、そしていなごを操る底知れぬところの使いによって与えられることがあるでしょう。でも、そんなときには黙示録9章4節、額に神の印(いん)をいただいていることを、2コリント5章14節15節を読み直して確認しましょう。自分一人が死んでも悪魔には対抗できません。主イエス様と一緒に死に、主イエス様の愛と一つにしていただきましょう。

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