「あわれみの教会」(ヤコブ2章13節) ( 11.17/2024 ) |
「あわれみを示したことのない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(13節) 'Those who have not shown mercy will not receive mercy when they are judged. To show mercy is better than to judge.`(James 2:13) ヤコブの手紙2章には、信仰には行いも伴っていないと駄目であると記されています(17節)。信仰だけで行いのない者として例に挙げられているのはなんと悪霊です(19節)。しかし、もし行いを伴う信仰を持つことができたなら信仰は役に立つものに変えられその人は救われることが暗に約束されています(14節)。 1.行いを伴う信仰は人を救う 昨日あるご婦人の優しい笑顔を拝見しました。親族の方にいつも祈られている方です。おそらく主イエス様を信じていても教会に近づくきっかけが得られずにおられたのですが、たのしいバザーをきっかけにして御霊の促しに従うことができた喜びだったのだと思います。また、ご近所の皆様や数年ぶりに尋ねてくれた青年もいました。「ささげます」と明るく献品をしてくださった方々も大勢おられました。みな自由の喜びを体験された方々です(12節、8節参照)。 2.あわれみがさばきに対して勝ち誇る あわれみとさばきは対立するものとして紹介されています。わたくしが学生の頃、通っていた教会の牧師先生が水曜日ごとに夕食としてふるまってくれたのはうな丼でした。わたくしがそのことを寮でいつも話しますので、25人いる同じブロックメンバーはOくんという友人以外、同級生と後輩は全員一度は通っていた教会もしくは学校のある町の教会へ足を運びました。ある友人たちは何度も足を運びました。お金も何もない青年たちが何も心配しないで教会に来て何度も福音に触れることができたのです。 3.自由をもたらす律法 信仰が行いにまで変わるきっかけはあわれみ、すなわち愛です。さばきを捨てて愛を選択するならあわれみの道を歩んだ人に自由が与えられるのです。仮にあわれみを受ける側の人々の人生を考えてみますと、少なくともあわれみを注いだ人々の後ろ姿はその心の残り続けるのです。そして後の日にきっとその足跡に従う日が来るのです(使徒の働き1章8節)。 今日は障害走のハードルのように前におかれている「その子イサク」(さばき)という最も大切なものを神に(祭壇に)ささげる日なのではないでしょうか。律法は罪の牢獄から私たちを自由にするのです(12節)。すなわち、さばきの代わりに神が注いでくださるのはあわれみです。 |
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