「救い主の誕生」(ルカの福音書2章8節〜20節) ( 12.23/2024 ) |
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節) 'Today in the town of David a Savior has been born to you. He is the Messiah the Lord.`(Luke 2:11) 救い主がお生まれになることを聞いた羊飼いたちは直ぐに御子を拝みに行きました。そして天使が語ったことがその通りであることを確認して神をほめたたえました。私たちが行くべきダビデの町はどこで、いったいどのようにして救い主の誕生を確認したらよいのでしょうか。 1.本物の神様はただおひとりであることを知ること 町を歩いていますと、大小さまざまな神様が祀ってあります。けれども本物の神様はこの全宇宙を創造された神様おひとりです。創世記の1章1節に「はじめに神が天と地を創造された。」とあります。 2.罪のない人がどこにもなかったので神はご自身のひとり子を地上に送られた 神様は人が普段気にしている綺麗であるかとか、お金があるかとか、頭が良いかとか、スポーツができるかとかは全く気にしておられません。神様が見ておられるのは心の中です。でも、心の中を全部調べた結果罪のない人はこの地上に一人もいませんでした。ですからみな死刑にならなければならないというのが神様の掟です。けれども、神様は自分が造った人たち全員を愛しておられましたのでひとりも殺したくありませんでした。そこで神様は考えました。そしてご自分のひとり子であるイエス様を呼んで相談されたのです。地上のすべての人の罪を集めて罪から救うために地上に行ってくれないかと聞かれたのです。そして「おまえを信じる者の罪は問わないようにしてあるから」と告げました。イエス様は「ハイ行って参ります」と父なる神に答えてこの地上に生まれてくださいました。これが主イエス様です。そして人々がイエス様に告白する罪はイエス様のほうに移ってしまいました。そして、イエス様は人々の罪をご自分に集めてくださり、人々はイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。唯一罪を犯したことが無かった御子イエス様が十字架上で死刑になってくださったのです。 3.自分の罪をお任せすること 「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分をお与えくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2章20節)と聖書は語っています。この「神の御子に対する信仰」という部分の直訳は「神の御子の信仰に在りて」だそうです。そしてここの「信仰」は真実という意味です。ですから、このみことばの意味は、神の御子の真実に拠っているのですという意味です。真実すなわち逃げることなく私たちの罪を負ってくださるキリストが誕生されました。あなたも今日彼を信じてみませんか。 神様はばちを与えるお方ではなく、死刑から救いたいと願っていてくださる愛のお方です。もし私たちが主イエス様を信じて自分の罪を(すみませんでした)とお任せするなら神様は主イエス様に免じて赦してくださるお方なのです。罪深い私たちの人生と共に歩むために救い主は誕生されました。 |
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