「主の再臨に備えて」(1テサロニケ5章16節〜22節) ( 12.29/2024 )
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16節〜18節)

'Always be joyful.Never stop praying.Give thanks no matter what happens. God wants you to thank him because you believe in Christ Jesus.`(1 Thessalonians 5:16-18)

主の再臨に備えてテサロニケの教会が準備したものとは、

1.聖書のことば(1章6節)

今年も美雪先生が地域の子どもたちにコツコツと飴玉と一緒にみことばの種を蒔いてくださいました。人生は、自分しか信じることができず自分を神としてしまう人生と、本物の神を求め敬う人生に分かれます。ある有名な歌手は主イエス様がガリラヤ湖で湖に「黙れ、静まれ」(マルコ4章39節)と命じ、嵐と波を静められたことを知って本物の神を求め始め、嵐の中でも沖へ沖へと漕ぎ出していく人生を求めて2か月後には洗礼を受けたそうです。私たちの教会もまた、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れた教会です。

2.信仰と愛(3章6節、12節)

彼らが聞いた福音とは、「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むように」(2章12節)ということでした。そして彼らはこれを人のことばではなく神のことばとして受け入れみことばは信じた彼らのうちに働き、彼らはキリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。(受け入れなかった人々の歩んだ生涯についても2章15節16節に語られています)。けれども彼らに定められていたのは苦難でした(3章3節)。しかし、その苦難の中でも彼らの人生に満ち溢れていたものは信仰と愛でした(3章6節、12節)。

3.聖さ

4章には神に喜ばれるためにどのように歩むべきか命じられています。神のみこころは私たちが聖なる者となることです。4章7節に「神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。」とあります。
神は私たちの心まで(2章4節)聖くしてくださるはずです。その手段は聖書のみことばです(1章6節)。ダビデも詩篇51篇5節に「罪ある者として母は私を身ごもりました」と言い、ローマ7章24節には「私は本当にみじめな人間です」とパウロは告白しています。この罪の問題の解決は身代わりの十字架ではなく、共につけられている十字架です。神が私たちの罪を既にキリストの十字架に、私と共につけてしまっているというのが神の答えです。自分で断ち切れない罪がありますが、「私はキリストとともに十字架につけられました。」(ガラテヤ2章19節)そして、ガラテヤ5章24節に「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」の通りに能動的に歩むのです。大阪の一人の青年は〜学会から改宗してクリスチャンになるために、仏壇の中身を地域の責任者に返しに行かれました。

すなわち、私たちは5章9節10節をお読みいただきますと救いを受けるように定められているのです。それで、4章7節8節にありますように神からの聖霊によって、神を知らない異邦人のように情欲におぼれないようにそして兄弟を踏みつけないように諭されて、多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣おうとしております。すなわち1章9節の「偶像から立ち返って」の偶像とは自分自身のことです。生けるまことの神とは主イエス様のことです。主イエス様に対していつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しましょう。(できるかな)の保証はみことばです(1章6節)。来る御怒りから私たちを救い出してくださるのは 「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」(1章10節)

礼拝の対象を自分から主イエス様に変えるのは今日です。主の再臨に備えて主イエス様を喜び、主イエス様に祈り、主イエス様に感謝しましょう。

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