「主にお応えする教会」(マルコ11章3節) ( 1.5/2025 )
「もしだれかが。『なぜそんなことをするのか』と言(い)ったら、『主(しゅ)がお入(い)り用(よう)なのです。すぐに、またここにお返(かえ)しします』と言(い)いなさい。」(マルコ11章3節)

'Someone may ask you ‘Why are you doing this?’ If so say ‘The Lord needs it. But he will send it back here soon.`(Mark 11:3)

信仰生活は聖書を神のことばとして信じるところから始まります。そして、信じるとはその言葉に従うことを意味します。人と人が何か約束をしても、もし信じ合う関係がないならその関係は続きません。主が選ばれたのは未だ誰も乗ったことのない子ろばでした。自分の安全を考えるならまだ一度も人を乗せたことのない子ろばは選ばないはずです。けれども、主が選ばれたのは子ろばであり、私たちの教会すなわち私たちひとり一人なのです。

1.主とは

マルコの福音書の冒頭に主イエス様の洗礼の記事があり御霊が鳩のように主イエス様に降りました。そしてこの聖霊のみわざがなされていきます。すなわち、悪霊は聖霊の力によって追い出され病が癒されていくのです。

2.弟子たちの姿

悪霊を追い出される記事の次に記されるのは弟子たちや民衆の不信仰な姿です。そして、そんな中視点が病からの癒しを求めて主イエス様に近づく人々からだんだんと弟子たちに移ってきます。そして5000人の給食の奇跡があり、続いて4000人の給食の奇跡が行われ、頭で計算して足りないと嘆く弟子たちと民衆の信仰が整えられていきます。そしていよいよ人々が自分を誰だと言っているかと質問され主イエス様はご自分が十字架にかかりよみがえることになることを打ち明けるのです。一方弟子たちはまだ自分が偉くなりたいと考えてしまい、偉くなりたいなら僕となりなさいと叱られます。

3.子ろばを選ばれた主イエス様

「子ろばに乗ってごらん」と言われたら9割の人は戸惑うと思います。自分の身に危険が及ぶと思ってしまうからです。けれども主イエス様が選ばれ良しとされたのはまだ誰も乗ったことのない子ろばでした。
マルコの福音書7章に人を汚すものは内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさであると指摘されます。すると続く記事に登場するツロの母親は娘のために主イエス様の足元にひれ伏し、更に、自分と娘を小犬と呼んでへりくだるのです。すなわち私たちは高慢という難題を抱えているのです。

主イエス様が必要とされて選ばれたのは軍用馬ではなく、人を乗せたこともない子ろばです。周りの人から見ると(大丈夫か)と心配されてしまう姿なのかもしれません。けれども、主イエス様のエルサレム入場のために立派に用いられているのです。
昔、信仰を持たれた後、病状が悪化したクリスチャン男性と共に教会生活させていただいたことがあります。とっても優しい兄弟でした。「自分の量るその秤で自分にも量り与えられ」(マルコ4章24節)と「地はひとりでに実をならせ…大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」(32節)を思い出すのです。その陰に巣を作れるようになる人とは、上手に世の中を泳ぐことができる人ではなく弱さがあり主イエス様に頼りっきりという人なのではないでしょうか。他人はどのように感じていても主イエス様が必要とされたのはまだ誰も乗ったことのない子ろばでした。主イエス様に操られる弱い子ろばを主は必要としてくださっています。

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