![]() |
「みつめるべきお方とは誰か」(マタイ8章34節) ( 1.26/2025 ) |
「すると見よ。町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。」(34節) 'Then the whole town went out to meet Jesus. When they saw him they begged him to leave their area.` (Matthew 8:34) ユダヤ人はひづめが分かれ反芻する動物に属さない豚を食べません。それで主イエス様は悪霊が豚に入ることを許されたということかと思うのですが、豚を所有していた町の人々にとっては自分の財産を失ってしまった災害に思えたことでしょう。 信仰の結果自分の財産を失うこと、例えば献金はどうでしょうか。神様を信じるわけですから献金が損失になることは考えられないのですが、実際の生活にお金の問題は密着しております。イエス様に立ち去ってほしいと懇願した町の人々を通して私たちの信仰の持ち方を考えてみましょう。 このマタイ8章は1節から4節がツァラアトに冒された人の癒し、5節から13節は中風のために寝込んでしまっていた百卒長のしもべの癒し、14節から15節はペテロの姑の癒し、16節から17節は悪霊につかれた人々、病気の人々の癒し、18節から22節は弟子たちに対するご命令、23節から27節は風や湖に対するご命令、28節から34節は悪霊へのご命令です。 最後の段落に登場しておりますのは、悪霊につかれていた二人の人と、多くの豚の群れと悪霊ども、そして町に住んでいた人々とイエス様です。悪霊につかれていた二人の人は悪霊が取り除かれ恐らく幸せな人生に入れられたでしょう。しかし、豚の持ち主たちにとっては財産を失うという悲劇が起こったのです。 生活の糧である豚の群れを失った人々にとって主イエス様は災いの種であったでしょう。しかし、自分のからだから悪霊を追い出してもらった男たちにとってイエス様は救い主でした。豚の群れを所有していた人々にとってこの事件は財産を失うことになったのですが主イエス様は人を殺すお方ではなく、病を癒し生かしてくださるお方であることを考えるとき、豚の群れを失った人々にも主は何かの救いを与えてくださったのではないでしょうか。 財産を失うことがどうして救いなのでしょうか。ある小説に登場する一人の男性は宣教師の先生が与えてくれた救命具で命を救われます。そして、自分も宣教師の先生と同じ生き方をしたいと思いつつ生き続けるのですが、ある日自分が先生たちと全然違う道を選んでいることに気づきます。そしてその理由を彼は考察するのです。それは宣教師の先生は神様をみつめ目的として歩んでおられたけれども、私にはみつめるべき十字架上のイエス様、そして復活のイエス様、再臨されるイエス様がいなかったということでした。罪とはギリシャ語で的を外すという意味のことばです。財産の多寡ではなく、人生の的である主イエス様をみつめているかどうかで人生の幸福と不幸が決まるのです。町の人々にとって豚を失ったときは主イエス様を神様とし人生の目的、的とするチャンスのはずでした。 財産を失って主イエス様を町から追い出してしまった人々のことを思いつつ、私共は主イエス様を追い出したりしないでみつめ続ける人生を選択したいと思うのです。 パウロとシラスは一人の女性を救い、むち打ちに遭い、投獄され痛かったと思うのですが、占いの霊に憑かれた女、そして獄吏と彼の家の者全員の救いを見せていただくことになりました(使徒の働き16章)。禍のゆえにイエス様を追い出してしまっていないか考えてみましょう。パウロとシラスにあったものは苦しみの中での神への賛美でした。 |
|
|
TOP |