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「こころ一つに」(マタイ3章17節) ( 4.14/2025 ) |
「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。『これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(17節) `A voice from heaven said “This is my Son and I love him. I am very pleased with him.”'`(Matthew 3:17) この教会のメンバーの中に、素敵な笑顔でほほえみあう方々がおられます。私たちは洗礼を通して、救い主、主イエス様とこころ一つにできるときが来たら幸いです。私たちがこころを一つにすべき主イエス様とは、 1. 王なる救い主(詩篇2篇7節) 2. 僕なる救い主(イザヤ42章1節) 3. 天を開かれた救い主(マタイ3章15節、16節) すなわち、人は人としての在り方としてのTPOを気にして神について考えることすら致しませんが神の側から人間のところにまで下ってくださって、私たちのために御子イエス様によって神の義を満足させてくださって、神様のおこころを全部成就してくださって私たちに天を開き救いの道を開いてくださったのです。おきてによる救いではなく、信仰によって救われる道が開かれたのです。 しかし救われる(義とされる)ためには、ただひとつ、この救い主であるお方とこころを一つにする必要があるのです。その方法が洗礼です。 すなわち、ローマ書6章によりますと、バプテスマ(洗礼)とはキリストと共に葬られ、キリストと共に新しい命に生きることです。キリスト・イエスにつくバプテスマ(ローマ6章3節4節)とある通りです。そこで、著者として用いられたパウロ自身が洗礼によっていったい何について葬られ死んだ者とされたのか、彼の心の中を知るために彼の足跡をたどってみますと、 パウロの足跡1、使徒の働き8章1節「ステパノを殺すことに賛成していた。」足跡2、使徒の働き7章51節「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっている。」とステパノから指摘されていた。 すなわち、パウロは主イエス様を信じて救われる前においては頑固で心と耳に割礼のない者と指摘された人物であり、怒って聖霊の証人であったステパノを殺害した人でした。すなわち、形骸化した信仰生活にあぐらをかいていたサウロ、でも好きであぐらをかいていたのではなく、自分の力では律法を全うできなかった彼は救い主を待ち望んでいたのです。そのようなサウロが洗礼を受けて主イエス様の死とよみがえりにこころを一つにしたときに、すなわち自分の人生に主イエス様を計算し認めた時に(ローマ6章11節)迫害を受け、財産も地位も名誉も命も失ったのですが、永遠のいのちと神との平和であるイエス様を得たのです。すなわち主イエス様の笑顔を見たのです。すなわち、主イエス様によって天は開かれ御霊を与えられて、主イエス様によって神に服従する生涯へと、神に立ち返ることができたのです。 神への服従を忘れてしまっている自己中心を悔い改めて、救い主、主イエス様とこころを一つにしてお従い致しましょう。 (参考;東京聖書学院教会 小林和夫牧師の説教) |
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