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「御顔を仰ぎ見よ」(ヨハネ20章20節) ( 4.21/2025 ) |
「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20節) `The disciples were very happy when they saw the Lord.`(John 20:20) 本日公に信仰告白をして洗礼を受ける姉妹がおられます。ヨブは神を信じていても苦難に遭いました。しかし、ヨブ24章10節には、「しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。」と告白しています。アブラハムはイサクをささげましたが、主を見た人の中に数えられています(ヨハネ8章56節)。そして喜んだ人として証しされています。十字架を乗り越えるために必要なことは、 1.共に住まう主イエス様 1コリント10章2節によりますと約200万人のイスラエルの民の出エジプトは洗礼式であったことが分かります。ヨハネ1章14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とある、「住まう」とは(スケーネー)幕屋住まいをするという意味です。荒野の孤独と乏しさと乾きを満たすため主は幕屋を造らせ雲の中に臨在され共にいてくださって、40年間に及んだ荒野の旅を全うさせてくださいました。 2.教会の交わりの中に臨在される主 ヨハネ20章24節によりますとトマスがイエス様を「見ないと信じない」と言ってしまった原因は弟子たちと一緒にいなかったことに因るものでした。しかし、トマスの不信仰は8日という期限付き(ヨハネ20章26節)でした。ルカ24章53節によりその後のトマスの足取りが分かります。彼はいつも宮にいて神をほめたたえました。凧は強風が吹いても飛んで行ってしまうことはありません。高く、高く天上ります。糸で結ばれているからです。この場合の糸とは主への礼拝であり、教会の交わりです。大切に致しましょう。 3.復活の主の御顔を見、知ること 問題は常に起こってまいります。けれども、1ペテロ2章24節「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし、今や、自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰った。」 一番大切なことは、私たちの犯した罪の解決です。ヨハネ14章27節、1ヨハネ1章7節、9節、ヨハネ16章33節に赤線を引いてください。すなわち、悔い改めた先にあるのは主イエス様の御顔です。それは、私たちに立ち上がる力を与えてくださる御顔なのです(ヨハネ20章20節参照)。彼らは主イエス様の御顔を見て、赦しと喜びを受け取りました。 アブラハム(ヨハネ8章56節)、モーセ(ヨハネ5章46節)、イザヤ(ヨハネ12章41節)、バプテスマのヨハネ(ヨハネ1章1節〜3節)は旧約時代に主イエス様を見ました。神は父子聖霊の三位一体の三位格をもたれたおひとりの神であります。救いを計画される父なる神、人として地上に降ってくださった子なる神、御霊として臨在くださる聖霊、と違った位格がありつつただおひとりの神です。今は聖霊の時代です。聖霊を崇め、罪を悔い改めてお従いして参ります時に迫害があっても彼はみことばを証ししてくださいます(ヨハネ14章26節、15章26節)。それが信仰生活の力なのです(詩篇119篇107節)。そしてヨハネ20章23節赦しの宣言を委ねられた者たちによって平安は伝達されていくのです。クリスチャン生活とは神との交わりです。主を見て喜びましょう。 (参考;東京聖書学院教会 小林和夫牧師の説教) |
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