「確信」(へブル10章35節) ( 5.29/2025 )
「その確信には大きな報いがあります。」
'So don’t throw away your bold faith. It will bring you rich rewards.(Hebrews 10:35)

確信とは自分の正しさへの信仰に輪を掛けたものではございません。なぜなら、私共の現実は惨々たるものだからです。もし人間に取扱説明書があれば直視できないでしょう。けれども、神様である主イエス様は私たちを全部ご承知の上で(ヨハネ1章48節)私たちの過去現在未来の全部の罪を引き受けてくださり、もう罪のために裁かれることのない身分に変えてくださり、死からよみがえって聖霊を送ってくださっていのちを与えてくださっています。でも、現実は取扱説明書の通りでございましてという私共でございます。ですから、ここの確信とは私の確信ではなく、主イエス様の私共に対する確信です。

神様に背を向けた人生は薄々皆が感じているように十字架に現された神の裁きがあるのです。けれども当然裁かれ滅ぼされるはずの私が主イエス様の十字架のゆえに赦されたから神に従うのです。ガラテヤ2章19節によりますと、自分が主人公で神様を抜きにした人生は、イエス様が代わりに死んでくださったということは私が死んだと同じことです。ガラテヤ2章20節よみがえっておられるイエス様が私共に命を与えて、紐で引っ張られる人形のように生かしてくださっているのです。

「神の御子に対する信仰」(ガラテヤ2章20節)とは、自分の信仰ではなくてI live by faith in the Son of God. (ESV)です。「御子の信仰によって」という意味です。どこまでも信頼してくださる御子が信仰を繋げて繋げてくださるようなニュアンスです。今はどんなに弱くても主が(今にこうなる)と望みを持って待っていてくださるのです。

へブル10章35節の確信とは信仰です。イエス様がこう伸びて来ると期待していてくださるということです。そして信仰の報いとは、主イエス様が必ずご自身の信仰通りに導いてくださるということです。罪が近づくと私共はあたふたします。でも主イエスは死からよみがえって今も生きてくださっていることを1コリント15章8節、10節と証ししています。ですからクリスチャンには他人に知られない恵みがあります。このイエス様の信仰に引っ張られているのです。命まで捨ててくださったお方の愛に引かれるのです。ですから「イエス様、ご存じのとおりです。どうかあわれんでください。」と祈るのです。

ですから、現状はどんなに辛くてもそんなに問題ではないのです。イエス様が変えてくだされば何でも変わるからです。神は必ずおことばのお約束通り結果を出してくださいます。私たちに必要なのは忍耐なのです(へブル10章36節)。

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