『キリストの苦しみに与る』(コロサイ1章19節〜27節) ( 7.14/2025 )
「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、
キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(24節)

序. 2000年前に死なれたキリストが現代の私と何の関係があるのだろうか。

1.創造主であるキリスト

15、16節に、御子は創造主であると書かれています。胎児が母胎にいる時、人格的には2人ですが母子は一体です。三位一体とは父の中に御子がおられ、御子の内に聖霊がおられる、しかし三位は一つ、その様です。創造の前に御子は神から生まれ、「神の傍らで、これを組み立てる者であった」(箴言8:30)と書かれています。御子は創造主である宇宙の王子です。人間で言うなればいいとこのおぼっちゃんとでも言いましょうか。高貴の出です。

2.人に捨てられた神

普段、「イエス様のお名前で」と祈りながら、私たちはどれほど御子に感謝をしているでしょうか。「イエス様のお名前」ということは、主イエスの十字架の贖いのゆえに、罪ある者の祈りが神に届くという意味。どれほど御子の贖いを感謝していますか?ヨハネの福音書には、「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」(ヨハネ1:11)。人間は人に無視されることほど辛いことはありません。しかし、世界の創造主である御子キリストは、人に軽く見られ、疑われ、バカにされ、罵られ、そして、恥ずかしい姿にされ、最後は殺されたのです。「もし、私だったら?」耐えられないことです。しかし、「私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)と聖書は書いています。知らなかったとは言え、私自身も私を造った神を知らない恩知らずな存在、神なく望みのない人生を歩んでいた、悪いことをして平気で笑っていたような悲しい存在なのです。神を捨てた人々に数えられていた一人です。キリストはその不遜な私の罪を十字架で洗い、私を神の子としてきよめた、冷えきった私の心に愛を与えてくださった。

3.キリストの苦しみに与る

今、あなたは誰かのせいで不当に苦しんでおられますか?それはあなたを苦しめているその人が救われるためなのです。パウロはキリスト者を大迫害した張本人でありながら、キリストの愛の呼びかけを聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのはあなたには痛い」(使徒26:14)。神が愛する信者を蹴るのはその人が傷を負うこと。キリストは私以上に苦しんでその人の救いを祈っています。その人がいのちを得るために。かつて私も主を悲しませた。しかし、私も救っていただいた。ナイチンゲールは高貴の出でありながら、戦場に降り、人の汚れを負い、ひどい異臭の中、死にゆく体を看護して、多くの命を救った。私達は自分が汚れるのを厭い、十字架に指一本触れずに、どうして主の苦しみのわずかでも担えないのだろうか?天で神の御顔を見られるだろうか。福音のために、主と共に苦しみに与りたい。
(説教者;田代美雪牧師)

TOP