「残されていた平安」(マタイ11章29節 ( 8.3/2025 )
「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(29節)
'Become my servants and learn from me. I am gentle and free of pride. You will find rest for your souls.`(Matthew 11:29)

主イエス様の下さる休息には3つの特徴があります。それは回復、繰り返し、上からです。

1,回復された休息

人間は、元は神の愛の交わりの中にデートするそんな愛の関係にありました。ところが罪の結果神から身を隠す人生となったのです。この時以来額に汗するという悩みの中の人生に入れられ、荒野で反抗した人々は安息の地に入ることを拒まれてしまいました(へブル3章16節〜18節)。ところが主イエス様による安息が残っているのです(へブル4章9節)。神の民のためには安息が残っています。それを与えるお方が主イエス様であり、主イエス様の平安は世のものとは違っていました(ヨハネ14章27節)。それは本当の平安、本当の休みでした。

2,繰り返し与えられる休息

人はどうして、偽善にとどまるのでしょうか、それでは律法学者やパリサイ人と一緒ではないでしょうか。でも、主イエス様の平安は繰り返し与えられる平安です。しかしそれは繰り返し与えられなければ生きていけない罪人であると認める人でないと受け取れない救いなのです。そんな救い主なのです。生ける愛の存在に近づくなら繰り返し神の愛と平安が与えられるのです。日常の嵐の中でおぼれかけたペテロでしたので、主を否んだ危機の時、主に回復を求めて祈れたのです。ですから主イエス様に繰り返し近づき座りましょう。誰よりも知ってくださっている主イエス様に会いましょう。主イエス様は認め受け止めてくださいますし際限なく休ませてくださるのです。

3,人間の与える休息でなく上から与えられる休息(聖霊)

世が与える平安とは異なる(ヨハネ14章27節)。すなわち、「荷を降ろせ」でなく、私に学びなさいという平安です。この上負わせるのですかと思われるかと思いますが、本当の休みの道は十字架を負う道です。文句を言わないで従う道です。イエス様のくびきには安息があります。主イエス様が共に負ってくださるからです。十字架がどうして良いものと言われるのか。それは、主イエス様に原因があります。主イエス様は柔和でへりくだっているからです。強情で誰とも一緒にやっていけない人でも主イエス様とでしたら上手くやっていけるよ。というのです。

それは柔和なイエス様とだからできるのです。人間は一緒にくびきを負うのは限界があります。けれども主イエス様の愛、主イエス様のくびきは、すなわち柔和は、上からのものであり主イエス様との交わりの中に与えられるのです。決して捨てないと言ってくださっているお方との交わりです。理窟でない体験していく平安です。主イエス様に近づいて主イエス様の重荷の前にくびきを負わせて頂き、主イエス様に私たちのくびきを負っていただきましょう。

神様から離れて平安を失い、労苦という強風や恐れや不信仰に勝てないとき、なおも安息は残されていると約束されています。それは世と異なる休息です。主に叫びましょう。十字架の現実の中に祈りの中で主はご自身の栄光を度々現わしておられるお方です。主のくびきの中に安息は現わされます。それは残されていた休息、共に歩んでくださる主の柔和です。
(参考;東京聖書学院教会 小林和夫牧師の説教)

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