『恵みと喜びの書』(ルカ1章5節〜17節) ( 12.1/2025 )
「その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、…ます。」(14節)

'He will be a joy and delight to you. His birth will make many people very glad.`(Luke 1:14)

序.今日からアドベント。待降節。主イエス・キリストが私の心に来ることを
待ち望みたい。

1.痛みを持つ善人

この福音書の著者ルカについて。彼はパウロにとってそばにいた人物(Uテモテ4:11)、また「愛する医者」(コロサイ4:14)。慰めの人。人は痛みの時、何もできなくても人がそばにいてくれるだけで慰められる。ルカの福音書は聖霊による喜びの書。聖霊も慰め主。ルカはその友に「そばにいて」、この喜びの書が真実な事実であることを伝え、信じ受け入れるよう、私達一人一人に語っている。
今日はザカリヤとエリサベツが主人公。この二人はキリスト誕生の前置き。太陽は明るすぎるが、その前に空が白み、暗い夜が明けることを告げる様に、イエス降誕の前にその先駆けのヨハネの誕生話。

ザカリヤとエリサベツは名門の血統の祭司だが慎ましく生活していた。世に祭司の不正がはびこる中、「神の前に正しい」希少な信仰者。律法を守るのに非の打ち所のない善人。しかし、ザカリヤに二つの痛みがあった。外側の痛みは子がいなかったこと。人間には努力でどうしようもないものがある。老い、病、死。子育てもそう。人間の限界。人は皆ハンディキャップを負っている。完全な人はいない。しかし、痛みは神の小道に導く立て看板。痛みにより、人は神に生かされている、受け身の存在だと気づく。痛みを負うことによって、人の痛みを想像する愛が生まれる。祭司は人の弱さを知る必要がある(ヘブル4:15)。

2. 善人の不信仰

ザカリヤのもう一つの欠けは彼の内面にあった。彼はおきまりの儀式を喜びもなく、おつとめとして奉仕した。みじめにも思えた。心に喜びも満足もなかった。神への愛と感謝がなかった。主の使いが現れた時、それが罪であることを知らされ、恐れた。「どんなことも神が見ておられる」ことは罪人には恐れ。しかし、救われた者には慰め。主の使いが神の憐みを語っても、屁理屈をつけて受け取ろうとしなかった。自称義人の自負が彼を高慢にさせた。これが律法的義人の限界。不信仰者は神に高慢におしゃべりする。しかし、神は彼に沈黙を与えられる。神に高慢でいることは、人間にとって決して幸せではないから。

3.わたし以外に何か必要か

神の愛の鞭は信仰者の慰め(詩編23:4)。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Uコリント7:10)。一人の教会学校に来ていた女の子が罪を悔い改め、目が輝き顔つきが変わった。ザカリヤも神のお取り扱いの中で、懇ろに神の恵みを知った。「主は覚えておられた」聖霊により、キリストに満たされ喜び溢れた。「わたしは御子を惜しみなくあなたに与えた。これ以上わたしに何を望むのか」

(説教者;田代美雪牧師)

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