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| 『完了した』(ヨハネ19章28節〜30節) ( 4.6/2026 ) |
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「『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」(30節) 序. 今朝は受難週です。主の十字架を思い、救いの恵みを感謝しましょう。 1.十字架の価値を知らない人 十字架の下には、兵卒たちがいた。彼らは、敵であるイエスを十字架につけ終わると、その下で犯罪者イエスの衣類を分け、くじ引きまでした。主イエスはむちで背中は裂けていた。その傷に荒い木のとげがささる。気も狂わんばかりの痛みであったろう。そして、それは兵士達、自分達の救いのためでもあった。 私の救いのために十字架にかかられているのに、その価値がわからない。 しかし、私達も似ていないだろうか。十字架は誰のためか?私の罪の身代わり。しかし、日頃、主イエスの名を呼びながら、どれほどのこの贖いを感謝しているだろうか。目の前に十字架がありながら、主に対する感動がなく、世のことに心をとらわれているなら、兵士達と同じではないか。 2.なぜ、キリストの十字架が私の救いか 人は生まれながら罪を持っている。原罪。誰に教えられなくても罪を犯す。 この罪は死の支払いを要求する。そんな罪は犯していない、というかもしれない。しかし、どんな罪でも人を死に至らせることができる。高齢者が「食いしんぼ」と言われたのを聞いて、拒食で亡くなった話。悪い噂や万引きで店が赤字や閉店。子どもの出生に関して否定的な言葉を聞かせ、自分の価値を見出せない子どももいる。自分が気付かない悪口一つ、噂する口で人を殺しているかもしれない。目でも人を殺しているかもしれない。「死んでわびよ」と言われる恨みをかっているかもしれない。罪はいつまでも死を要求し追いかけ続ける。 体の死だけでない、永遠の滅びを要求する。罪は、死をもってしか赦されない。だから、主イエスは、私が死ぬべきところを代わりに死んでくださった。 3.「完了した」 「渇く」というのは地獄の炎による苦しみ。私が行くべきはずの地獄に主が落とされてくださった。それによって、救いは「完了した」。 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(イザヤ53:11) 救いの土台は完成した。何も私達が十字架に代わってできることはない。 ただ、この救いを受け取るだけで良い。ヨハネ8章の姦淫の女性のように。 絶えずこの救いを感謝し、この土台の上に、信仰の生涯を築いていけばよい。 ただ主の御名と、お流しくださった血しおを崇めよう。 十字架以外に誇りはなし。ガラテヤ6章14節。 (説教者;田代美雪牧師) |
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