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| 「苦しみという栄光の道」(ルカ24章19節〜27節) ( 4.12/2026 ) |
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「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」(26節) 'Didn’t the Messiah have to suffer these things and then receive his glory?`(Luke 24:26) 1.拒絶され十字架に付けられたキリスト(19節、20節) 2.イスラエルを解放する方だと望みをかけていたキリスト(21節) 3.聖書が証ししているキリスト(26節、27節) 1番と2番はクレオパが主イエス様に語ったキリストの姿でした。けれども、よみがえられた主イエス様が解き明かしてくださったのは3番の聖書が証ししている通りの苦しみを受け、それから栄光に入られるキリストでした。 今も主イエス様を信じない人々は20節にありますように主イエス様を十字架につけてしまうでしょう。また、弟子たちは政治的な指導者を期待しているのだと思います。けれども、主イエス様の御生涯は苦しみとその後の栄光でした。 聖書は苦難を通られるキリストを伝え、主イエス様は十字架の死の後によみがえって栄光を現わされました。私たちも苦しみを受けたのちに栄光に入る道を知ったのですから、他の道に惑わされることなく苦しみの道を受け入れ歩みましょう。 弱肉強食の世界かもしれませんが、それは正しい世界ではありません。 「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」(1ペテロ2章21節〜25節) 「というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。ですから、私たちは今後、肉に従って人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(2コリント5章15節16節) 期待外れの御計画かもしれませんが、ここにおいて心の鈍さを改めましょう。 |
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