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| 『ひとりをも』(ヨハネ20章24節〜31節) ( 4.26/2026 ) |
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「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。」(26節) 'A week later Jesus’ disciples were in the house again. Thomas was with them.`(John 20:26) 序.主イエスの復活が私に個人的にどのような意味を持っているのか? 私のためのイースターか?今朝はトマスにとってのイースターを見たい。 1.トマスの人となり トマスの名前はヨハネの福音書に3回出てくる。11章ラザロの場面では、「私達も主と一緒に死のうではないか」、14章最後の晩餐で「私達にはわかりません」と。リーダー格になりたがっていたのかもしれない。デドモは「双子」というあだ名。恐らく少なくとも最初は嬉しくないあだ名だったろう。しかし、主イエスには激しく尊敬。しかし、仲間の弟子達のことはその他大勢扱い。自分がいつも主にとって一番弟子でありたい、と願っていた様子。 2.トマスの失言と主の「ひとり」を回復させる愛 トマスは主の復活の日の夕方、10人の弟子に現れた時、その場にいなかった。出遅れた。ヒステリックになり、思ってもいない言葉を言い放ってしまった。 愛する主の御傷に触るなど、痛々しくてとてもできるものではない。そんなむごいことを自分は言ってしまった。自分の失敗を後悔する一週間。 一週間後の同じ時間、今度はトマスがいる場面。主イエスは先週の場面を再現してくださった。たった一人のトマスのために。トマスの気持ちが収まるため、失敗を回復するために、まったく同じ場面を他の弟子と共に繰り返した。 一人でも、気持ちが沈んで前に進めない者がいたなら、その者も主は置いて行かれない。 「一人として滅びることなく」(ヨハネ3:16)。私たちも、主の目には十把ひとからげではない。一人の声を聞いておられ、心を知っておられる。 3.トマスの悔い改めと新しい使命 主はトマスに語られた。主は目には見えなくても、その場におられた。トマスの言葉も再現された。トマスは恐れた。復活された主イエスの前には何も隠し立てできない。今までの自分の傲慢、自分の名誉しか考えおらず、主の心を痛めていたことを悔い改めた。「主よ申し訳ありませんでした。私の主人は私ではありませんでした。神よ、あなたこそ私の神、私の主人です。」 主は彼にも息を吹きかけ、新しい使命に遣わされただろう。トマスは主の体の御傷には触らなかったが、主の心の痛みに触れた。その傷こそ私の罪が傷つけた傷だったから。トマスは、今度は自分が主イエスの傷ついた手、傷ついた足となろうと立ち上がった。 伝承では、トマスはインドで宣教し、殉教したと言われる。トマスの伝道した王の名が刻まれた貨幣が発見されたという。 主は私にも信じ従いなさいと仰る。「神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」(Uテモテ1:8)。 私の手を、足を主の御手、御足の代わりに使っていただこう。 主の御足の跡を踏み従ってまいりたい。 (説教者;田代美雪牧師) |
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